日本男子の理想の漢、高倉健

私が高倉健という映画スターを意識したのは

高倉健は任侠映画でスターになり、その後日本を代表する映画俳優になった。1961年生まれの私は健さんが任侠映画で活躍したころは10代にもなっていないので、そのことは後から知った。映画好きにもなっていなかったし、やくざ映画じゃ子供には興味もなかろう。

 

リアルタイムで健さんの映画を意識したのは「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)からだ。任侠映画のイメージからの脱却に成功した作品として、また山田洋次監督作品としても評価が高い。続いて山田洋次監督の「遥かなる山の呼び声」(1980年)でストイックで無口だけど、自分の任務はもくもくと行動するというのが男らしいというイメージが固まった。それが日本の男の理想像となった。

任侠映画での健さんは

そんなイメージがあったからビデオで高倉健の任侠映画を観ると意外だったけれど、「網走番外地」シリーズ(1965年~1972年)と「日本侠客伝」シリーズ(1964年~1971年)での健さんはよくしゃべるし明るいイメージもある。このストイックなイメージは「昭和残侠伝」シリーズ(1965年~1972年)のものだった。おそらくはこれが健さんのイメージを決定的にするものだったのだろう。

健さんはこの三本のシリーズの他の任侠映画にも出演しており、忙しいのに精神的に疲弊していた。しかし映画館で自分の作品を観にいくと観客が夢中になって観ているのを目の当たりにして、気持ちをあらたに仕事に臨んだと言う。

任侠映画のイメージから変えようとした健さんは

また1970年には東映社長・大川博に「やくざ映画以外の作品に出るのを認めてほしい」と希望を言ったら認められ、高倉プロを作った。だが71年に大川が死去して、社長に就任した岡田茂は特例は認めないとして大川との約束を反故にされた。

「新幹線大爆破」の出演が任侠映画からの脱却を即した

また1973年に「仁義なき戦い」が大ヒットすると、このままではやくざ映画しか出られないという危機感を持ったという。そこに1975年に「新幹線大爆破」で任侠映画というイメージを払拭させた。転機になる「幸福の黄色いハンカチ」と同年の「八甲田山」、1976年の「君よ墳怒の河を渡れ」により、任侠映画の健さんというところから抜け出した。

 

それから高倉健は理想の男像を演じ続けた。ストイックで無口な男のイメージを保ちつつ、「居酒屋兆治」(1983年)では明るくよくしゃべるという変化球もあった。

「GODZILLA」に出演しなかったのはとても残念

そのなかでアメリカ映画や中国映画にも出演。ヤン・デ・ボン監督は「GODZZILA」の企画を進めるさいに高倉健の出演を望んだが、彼が「GODZILLA」から降りたために彼の出演もなくなった。健さんが怪獣映画に!と面白そうと期待したが残念なことだ。

あまりにも意外だった高倉健の死因

2014年11月10日、悪性リンパ腫により都内病院で死去。それ以前から入院していたが、その姿を知られたくないというので一部の関係者しか知らない。だからマスコミで報道されることなく、だから私にはあまりにも突然のことだったので非常にショックを受けた。筋トレもして頑丈なイメージがあったから享年83歳というのも若すぎる死としか思えない。100歳近くまで存命でしかも映画俳優もやっているということを勝手に思い込んでいて、病死というのも意外だった。

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