「ゴジラ」はミッキーマウスなみに海外で知られている日本のキャラクター
ゴジラは今や世界中の人が知っている日本が誇るキャラクターである。1954年に第一作が公開された時は、当時としても類を見ない観客動員数を記録した。上映された渋谷東宝に並ぶ観客の列が道玄坂までに及んだ。待ち時間が2時間、封切り初日は都内だけでも約15万人が入ったという。国民の10人に1人は観たということになるということになるという観客動員数だった。
「ゴジラ」の企画が通るまで
そんな「ゴジラ」の第1作はインドネシアとの合作が流れてしまったので企画されたのである。インドネシア政府が撮影直前に合作映画の製作を承認しないという通告が来た。そのために中止になった映画の代替えを立てざるを得なかった。プロデューサーの田中友幸はビキニ環礁の核実験で被爆した第五福竜丸、第十三光栄丸の被爆事件から発想を得た。「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」というプロットを考えた。これを東宝の企画会議に提出したところ、製作総指揮の森岩雄の目にとまった。森は特撮映画の重要性を認識しており、円谷英二を特殊視覚撮影を任せるために招聘した。円谷は「インド洋で大ダコが日本の捕鯨船を襲うという構想を持っていて、企画部にプロットを提出していた。結局、田中案が採用された。結果としてはそれが良かったと言える。タコだと世界的なキャラクターになったかどうか疑問である。田中は「太平洋の鷲」と「さらばラバウル」で円谷と組んでいた本多猪四郎を監督に、日本発の立体映画「飛び出した日曜日」の監督である村田武雄にシナリオを書かせた。
日本の怪獣映画はぬいぐるみで
円谷は当初、欧米の同種の作品に倣って人形アニメーションを考えたが、公開予定日までに人形アニメでは完成が間に合わないと考え、ゴジラはぬいぐるみを使用することを決めた。この映画が大ヒットしたために日本の怪獣映画はぬいぐるみで表現するのが主流になる。だが、ぬいぐるみ怪獣がこの時初めてのことだから、ゴジラを演じた中島春雄はイメージがわかなかったという。ゴジラのデザインを見てもこれはどう動けば良いのか、何か動物の動きを真似するかと思い動物園に通ったとか。
日本初の怪獣映画なのでスタッフも役者も四苦八苦
日本初の怪獣映画なので、ドラマ部分でも特撮の部分でも試行錯誤を繰り返すことになる。主演の宝田明がゴジラのデザインを見ていないからどんな形をしているのも分からず、ゴジラを見たときの視線はどこへ向けたらいいのかと本多猪四郎監督に尋ねた。本多監督もゴジラがどれくらい大きいのかイメージができていないので少し困ったが、あの空にある雲に向けてくれと指示した。ところがそこでリハーサルをしてから本番になると目線を向ける雲が移動してしまった。
特撮班の方は3ヶ月かけて、朝9時にセットに入り準備をして17時ころから撮影に入り、朝の4~5時で撮影を終わるという強行スケジュール。大道具係から照明係までの総動員でミニチュアの設営をするとこんなに時間がかかってしまう。今だとこんな勤務時間だと問題になるが、昔はこういう無茶をしていたのだ。円谷英二は技術面には自信を持っていたが、客が入るかどうかは不安だったという。
だが封切られると空前の大ヒット。でも日本のジャーナリズムの評価はおおむね低い。当時の世間でのSFに対する偏見もあろう。また特撮は良いものの、ドラマ部分が良くないというのもこの種の映画によく言われることだった。しかし、一連の東宝特撮映画は大作扱いで、まだ日本がSFが一部の好きもののものだったマイナーな時代に、映画の分野でSFを大作として作っていた東宝の功績は大きい。その頃はハリウッド映画でもSF映画は盛んに作られていたが、低予算のB級、C級の映画だった。東宝は大作扱いだから宝田明や池部良らのスターを主役に、志村喬や中村伸郎らがっちりした芝居をする役者を揃えた。
けれどもB級ℂ級の映画じゃ、特撮も役者も貧弱だ。SFが盛んなアメリカでも映画にすれば低予算でチャチャッとやっつけてしまおうという感じである。さかんだと言っても映画にすれば本場アメリカもそんな扱いにされてしまう。
ゴジラは大ヒットしたがゆえに功罪があるので複雑な気持ち
とはいえ、東宝特撮映画も怪獣映画以外にもSF映画の範囲を広げて、「地球防衛軍」「ガス人間第一号」「妖星ゴラス」「海底軍艦」など製作していたが、結局は「ゴジラ」が長く生き長らえた。良くも悪くも日本のSF映画は怪獣映画、ゴジラに尽きてしまう。ゴジラ以外にも魅力のある怪獣を生み出したので、後には海外ではこれらをモンスター映画とは分けて、日本語のカイジューと呼称したりする。これらが海外で人気あるのはいいけれど、ゴジラ以外のSF映画がそれほどの人気を勝ち取れなかった。そのため日本のSF映画がすそ野を広げずに終わった。
1973年の「日本沈没」は怪獣映画以外のSF映画のメガヒットだったが、それも日本のSF映画ではあだ花に終わった。1970年代の日本映画は観客動員数を大幅に減らし落ち込んでいったころだから、このような映画は大作だから、ヒットしたとはいえそれに便乗したものは作られないというタイミングの悪さもあっただろう。映画が全盛期の頃であれば、もう少し日本SF映画がバラエティに富んだものになったかもしれない。「ゴジラ」はエポックメイキングだったが、「2001年宇宙の旅」みたいな映画が日本に現れなかったのは、SF好きとしては残念に思うのだ
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