真田広之のアクションスターの矜持を示す「吼えろ鉄拳」

ディズニープラスSTARオリジナルシリーズ「SHOUGUN将軍」で初めて主演とプロデューサーを務めた真田広之。

アメリカのテレビ業界での最高栄誉になるエミー賞とゴールデングローブ賞で主演男優賞を受賞しました。両賞とも日本人が受賞するのは初めてという快挙です。そのうえで、2025年4月16日、アメリカの雑誌「タイム」で世界で最も影響力がある100人のひとりとして選出したと発表もありました。ハリウッドに進出してやっと俳優としての名誉を得た彼には心より拍手をしたいと思います。

 

そこで真田広之の原点であるアクション映画スターとして活躍したころの作品を1本ご紹介します。

真田広之若い頃 人気を拡大させた「吼えろ鉄拳」

それは主演第2作目の「吼えろ鉄拳」(1981年)です。なぜ主演1作「忍者武芸帖 百地三太夫」(1980年)じゃないのかと言いますと、この作品は作品としては面白いものですが、残念ながらこけてしまいました。

真田広之のアクションスターとしての人気が出たのが2作目からです。ですからこの2作目を取り上げたいと思います。

真田広之をアクション映画スターとして売り出そうとした「忍者武芸帖 百地三太夫」が興行的に不振だったことで、だいぶ意気消沈となります。真田の師、千葉真一もがっかりしたでしょうね。

しかし、製作会社東映の社長・岡田茂は「忍者武芸帖 百地三太夫」の監督・鈴木則文監督に対し

「真田広之でもう一本作ってくれ。彼を売り出そうとした俺も責任がある。絶対客が来るから」と頼んだそうです。

鈴木監督は千葉真一の「アクション映画を作りたい」という執念も知っており、監督自身真田を「忍者武芸帖 百地三太夫」一本で終わらせたくないという気持ちがあったので、社長の依頼を快く承知しました。そして鈴木監督は千葉真一が率いるジャパン・アクション・クラブと数本映画製作をつきあうことになるのです。

真田広之の若い頃  アクションのみならずアイドルとしても売り出していた。

「吼えろ鉄拳」は松田聖子主演の「野菊の墓」と二本立てで封切りました。当時の映画興行は二本立てが主流だったのですよ。

松田聖子の人気とその頃、真田が雑誌などで取り上げられて人気が上がったことが功を奏して、この二本立てはヒットしました。

しかし、真田はアクションスターという他にアイドルとしても売り出されていて、歌手として歌番組にも出演。役者としての演技の幅を広げるためにも「道頓堀川」(1982年)や「麻雀放浪記」(1984年)などのアクション抜きのシリアス演技にも挑んでいます。

真田広之 若い頃 自分自身で全アクションをスタントマンに頼らず、自身でやる

でも私にとっては真田広之の最大の魅力はアクションが出来るというところなんです。千葉真一のファンでもありましたから、真田にもそこが一番いいところだと思っています。

「吼えろ鉄拳」で香港ロケで仇を追ってモーターボートで島に向かうシーンを撮る予定の時、風が強くて波が高かったのです。スタッフは鈴木監督に「代役でやりましょう」と進言しました。

しかし真田は「吹き替えを使ったのでは、アクションスターの名前が傷がつく」「忍者武芸帖 百地三太夫」で桃山城の天守閣から飛び降りたことを考えたらどうってことないですよ!」と鈴木監督に食い下がりました。

真田はどんな危険な場面でも吹き替えをしたことがなく、一度でもスタントマンを使えば、映画を観た客はあれはスタントマンを使ってやっているんだと思うに違いない、そんなことになったら、今までの苦労が水の泡になるというと必死に鈴木監督を説得しました。

真田広之 若い頃 走るバスの屋根での格闘

また香港の二階建てのバスの屋根での格闘場面では小雨が降って屋根が滑りやすく、想像以上に走行するバスの揺れが激しいという困難さです。しかも香港は道路上に飛び出した看板が多くてその都度、屋根に這いつくばるという状況で撮影をしました。

そこへパトカーがやってきたので、バスが急停車してあやうく振り落とされそうになりました。警官となんとか話がついて、ロケが再開してバスの屋根から看板に飛び移る場面は一発で成功しました。

 

映画としては平凡な出来ですが、真田広之がアクションスターとして世に出たというところで、そのプライドにかけて全アクションは彼自身で演じています。顔が良く見えないところでも代役のスタントマンが演じたわけではありません。その彼の意地を見せる作品となっています。

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