崖の上のポニョ リサ 呼び捨て なぜ主人公の男の子は両親を呼び捨てにするの?

「崖の上のポニョ」はアニメ本来の趣旨である子供向けの作品であります。ですが、成人したら幼稚で面白くないのかと問われれば、そんなことはありません。ということは宮崎駿監督の諸作品を鑑賞した人には百も承知ということでしょう。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て 画面の美しさと温かみ

まず画面が美しいのです。宗介の家や老人ホームの色鉛筆で塗ったこの色彩の美しさになんとも言えない美を感じます。また色鉛筆なだけに温かみのある色がこのファンタジー世界を観る者を作品世界に誘っていきます。このあたりはCGじゃないアニメの良さを感じさせます。子供向けではありますがこれだけで観る価値は充分にあります。またそれだけでないのです。この作品を初めて鑑賞するとある違和感が生じます。なんとなれば主人公・宗介が両親を呼び捨てにしてしまいます。自分も最初にこの作品を鑑賞したときにあれっ?とおもいました。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て 鈴木プロデューサーの見解

それについては宮崎駿監督の言及は見たことがありません。それで鈴木敏夫プロデューサーのこれについての発言を紹介します。

「宮崎駿監督の設定としては母親であるリサが宗介もそのように呼ぶように育てている」

「呼び捨てにしているのは、家族間であっても、一個人として自立すべきだということの象徴なのだと思います」

「もしかすると、今後の日本の家族の在り方かもしれない」

自分はこの呼び捨てにしている意図は鈴木氏のコメント通りだと思います。そこで子供向けと言いながら、本作品はそのことを子供と一緒に観ている親に伝えたいというメッセージだと思えます。

 

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て アメリカの文化から考える

よくアメリカ映画を観て、英語のセリフを聞いていると兄弟、姉妹間で「兄さん」「姉さん」と呼ばずに名前で呼んでいることに気が付いている方もおられると思います。

兄弟・姉妹間で上下の関係がなくフランクであるところにアメリカのものの考え方が現れています。

上下関係のきっちりしている軍隊でさえ、プライベートな時間では上官も部下のフランクな会話をしているのを映画でたびたび見ますね。

これらを考えますとアメリカみたいなそのフランクな関係をこれからの日本でもあるべきではないのかという主張をしているかもしれません。

ただし、アメリカでも子供は親に対しては「Mommy」「Dad」と呼んでいます。友人・兄弟間はフランクであってもさすがに両親にはアメリカでも名前で呼ぶことはありません。その意味から言えば、親しい間柄で上下関係はないとするアメリカよりも進んだ世界と言えるでしょう。

本作品の英語吹き替えや字幕でも両親を宗介が呼んでいると「Mommy」「Dad」に置き換えられています。そうなるとあちらの方には本作品の趣旨が伝わらない部分も出ていますね。というかこれは本作品のテーマなのですね。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て アメリカでも両親を名前で呼び捨てにすることはない

ここからいくら親しい間柄で平等でいるというのは理想であってもさすがに親を呼び捨てにする、というのは抵抗感がありすぎでしょう。アメリカ人でもそこらへんはちょっと・・となるのでしょう。だからこそ本作品で宗介がそういう風に親を名前で呼び捨てにしていることは重要な意味があると思われるのでここで考察してみるのです。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て クレヨンしんちゃんの場合は?

子供と一緒に観ていた親からはこれは教育上よろしくないと考えるのが普通でしょう。

例えば「クレヨンしんちゃん」でもしんちゃんは両親を「ひろし」「みさえ」と呼び捨てにしますね。これはしんちゃんがふざけて言っているのであって、ふだんはそう呼びません。母親に「みさえ」を読んでいると、母親は「パパの口真似はやめなさい」と𠮟ります。ここでは「崖の上のポニョ」とは違い、ギャグとして用いています。

そして普通の感覚として視聴者からは子供の教育上悪影響があるとクレームがつきます。子供がしんちゃんのこの真似をするというのが流行ったからです。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て 俳優・原田芳雄さんの場合

また記憶があいまいなのですが、俳優の故・原田芳雄さんが「笑っていいとも」に出演したときには、自分は子供に名前で呼ばせていると言ったことを思い出しました。なんでそうするのかと言えば、原田さんは自分が「お父さん」とか「パパ」と呼ばれるのを照れるからと答えたと思います。そう呼ばれるのが恥ずかしいということがなにか原田さんらしいという感じもしましたね。

「クレヨンしんちゃん」や原田芳雄さんの例はもちろん「崖の上のポニョ」とは全く違うものです。しかしそういった事例もこの作品での呼び捨てにしている設定を考える上で参考になることでしょう。

呼び捨てをギャグにすること、原田さんのように自分が「お父さん」と呼ばれるのは恥ずかしいという感覚がある人もいるというのも宗介が両親を呼び捨てにすることにそういったことも考えていくのもまるで宗介のこととは無関係ではないと思えるのです。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て 宮崎駿監督の意図は?

宮崎駿監督は「クレヨンしんちゃん」のようにそれをギャグにせず、また自分が原田さんのように「お父さん」と呼ばれることに照れはないと言えますね。

そうなるとますます、これからの日本の家庭における親子関係の理想を描いたと私は結論付けたいと思います。

今のところはそう考えておきます。これから何度も観ていくうちに考えが変わるかもしれません。宮崎監督のコメントがないのだから、これは鑑賞者の理解にゆだねるということになります。だからこちらが勝手にあれこれ解釈をしていいのでしょう。これから何度観るのかわかりませんが、その時に考えが変わるのか、それとも自分の解釈が変わるのか、それを楽しみにしたいと思います。

崖の上のポニョ リサ 呼び捨て 夏目漱石の作品が影響している?

あ、蛇足ながら名前で呼んでいることがキーワードである本作品の主人公が宗介になっているのは明らかです。夏目漱石の初期の三部作とされる「三四郎」「それから」に続く「門」の主人公の名前が宗介で崖の下の家で住んでいるという設定から影響を受けているのは確実でしょう。宮崎監督は「ハウルの動く城」(2004年)を製作した後に夏目漱石の作品を読みふけったのです。また夏目漱石の誕生日が旧暦の1月5日で宮崎監督の誕生日が新暦の1月5日なのは縁を感じさせますね。

 

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