アニメオタクなら細田守監督がスタジオジブリの人間ではないことは知っているでしょう。でも一般的には「バケモノの子」などもスタジオジブリ作品だと誤解する人もいるでしょうね。結論から言えば、「バケモノの子」はジブリ作品ではありません。
しかしですよ。細田守監督とスタジオジブリがまったく関係がない、とは言えないのです。実はあの「ハウルの動く城」は細田監督が手掛けるはずだったのです。
この「幻の細田版」から宮崎監督へのバトンタッチに至った経緯、その原因、そして関係者たちの証言について詳しく解説します。
鈴木敏夫が惚れ込んだ「ポスト宮崎」:細田守の起用
宮崎駿監督のもとには徳間書店から児童書が毎月送られてきます。アニメの次回作になるような原作の提供ですね。その中でこの原作が目に止まり、これでいこうとなるのです。
スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫は、「ポスト宮崎・高畑」となる次世代の才能を探していました。そんな折、東映アニメーションで『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年)などを手掛け、高い評価を得ていた細田守氏に白羽の矢を立て、ジブリ外から監督として招聘しました。
次世代の才能を発掘するために外部からの起用となりましたが、東映アニメーションが東映動画という呼称だったころ、宮崎駿もそこに所属していましたから、やはり外部からの起用だったら東映アニメの若いもんから呼ぼうとなったのでしょう。これは筆者自身の憶測ですから、真偽のほどは分かりませんけどそんな気はしますね。
制作の頓挫とスタッフの解体 なぜプロジェクトは崩壊したのか?「宮崎駿の影」と制作の泥沼
ジブリは、宮崎駿・高畑勲という2人の巨匠の演出スタイル(大量のセル画を使い、現場で絵や構成が変わっていく手法)にアニメーターたちが適応していました。そのため、外部から来た細田監督が自分のやり方で固めようとしても、ジブリのスタッフとの間に摩擦や戸惑いが生じました。
そのズレが制作を進めていくなか次第に大きくなります。細田監督は当時所属していた東映アニメーションのやり方で進めていこうとするのですが、ジブリに来たからにはジブリのやり方で進めるしかないことに失望してしまいます。東映アニメのやり方で制作していたのですから、やりやすい方法でやるのは当然のことでしたがこれがジブリでは通じないのです。
原作者であり、企画を立ち上げた宮崎監督は、若い細田監督をただ遠くで見守るタイプではなく、制作現場に顔を出してはストーリーや絵について「こうしたほうがいい」とアドバイスをしていきました。
真面目な細田監督はそのアドバイスを真っ直ぐ受け止めて修正を試みるものの、「翌日になると宮崎監督からまた全く違う方向の意見を言われる」ということが連日続き、精神的に追い詰められていきました。
まあ次世代の才能を育てるという意味から、宮崎監督も親切心からアドバイスをしていたと思いますが、これが細田監督にはプレッシャーでもありました。当時の細田監督にしてみれば、アニメ界の巨匠たる宮崎駿のアドバイスはありがたく受け止めることで、こちらから意見を言うことなどおこがましいと思ったのは想像すると、こちらも細田監督の背負った重荷を感じますね。ましてや昨日言ったことと違いますが?とは言えるわけがありません。アニメ界の大御所と意見を交わしあうなんて恐れ多くてできないことでした。そのストレスたるや大変なものでしょう。
細田監督自身が自分のオリジナルの脚本・コンテとして一から立ち上げた作品ではなく、すでに原作小説があり、さらには生みの親である宮崎監督の息吹がかるスタジオジブリの仕組みでは若手監督が一人で舵取りをするにはあまりに難易度が高いプロジェクトでした。ポスト宮崎駿を育てる目的が、これではかえって潰してしまう結果になりました。
当事者たちの証言:鈴木敏夫・宮崎駿が語った本音 真面目な性格が仇になってしまった?
鈴木敏夫は当時の細田守についてこう証言しました。
「宮さんは、企画を立てたら、あとは黙って見守るというタイプじゃありません。ストーリーや絵について、『こうしたほうがいい』とあれこれアドバイスしてきます。だから、細田くんは宮さんの話をまじめに聞いていたのです。宮さんの提案に従って細田くんが作業を進めていると、次の日にはぜんぜん違うことを言われる。それが一週間、一ヶ月と続くうち、彼はすっかり参ってしまった。」
細田監督同様に宮崎駿監督も真面目な人なんでしょう。真剣に若い人にアドバイスをしなきゃと思ったのでしょう。でも自分の立場が圧力になってしまうことに気がつかなかったのは,残念でした。 次世代の教育はスタジオジブリ内でやる方が良いでしょう。
細田監督自身も後に、この時の挫折についてメディアで度々言及しています。当時は「ハウルの動く城の監督をクビになった」という大きな絶望感を味わい、「もう自分はアニメーション映画が作れないのではないか」と深く落ち込んだと語っています。
結局、細田以下スタッフは解散、企画が頓挫してしまいます。このままお蔵入りになりそうでしたが、自身が企画した手前自分に責任があるとし、宮崎駿が監督するということで仕切り直しが行われます。
※「用意したスタッフが解体しちゃったんで、しょうがないから僕が出ていったっていう……」
※「乱入したんじゃなくて、スタッフがいなくなっちゃったからなんです。そうじゃなきゃ、お蔵入りさせるしかないっていう状況になってしまって。それで、しょうがないから僕が引き受けたんですよ。」
この交代劇で配給元の東宝も予定した公開日を延期せざるを得ませんでした。この騒動で制作遅延が原因で公開延期になるのも宮崎駿監督としては初の出来事です。
これが結果的に細田守版「ハウルの動く城」は無かった方が良かったのか?
この交代劇の主な原因は、「スタジオの制作風土の違い」「ジブリ内部のプレッシャー」「宮崎駿という圧倒的な存在の影」が重なったことにありました。
そこでもし細田守監督が宮崎駿監督のプレッシャーに負けずにアニメを完成させたらどうなったのでしょうかを考えて見ます。
当時の細田監督のネームバリューでは「ハウルの動く城」の興収196億円には届かなかったと思います。しかしながら、映画を鑑賞した人からは好評を頂戴したと考えています。そしてそれから細田守監督はジブリにちょくちょく呼ばれるか、東映アニメから移籍もあったのかもしれません。そうしたらジブリ色に染まった細田作品はどうなったのだろうと思います。
よく言われる細田監督への批判は、細田監督の単独脚本での作品はよろしくないというものです。彼は映像の美しさはいいが、ストーリーつくりがへたくそという悪評があります。彼が単独脚本だともう話が持たないと評判が悪いですよね。
しかし奥寺佐渡子が書いた脚本「時をかける少女」(2006年)「サマーウォーズ」(2009年)「おおかみこどもと雨と雪」(2012年、これは細田守との共同脚本)は高評価でしたが、この後、「バケモノの子」(2015年)から細田単独脚本でここから細田監督の不評が目立つようになりました。
「ハウルの動く城」の成功で細田監督がスタジオジブリにいたら、脚本は他人が書いて演出は細田がやるというかたちなら、昨今の細田作品のような不評を買っていなかっただろうと思いますね。
でもそうなるとジブリ色に染まった作品が、細田監督の特異性を出していなかったのかもしれませんね。よくもわるくもジブリ作品と言う評価しか出さないかもしれません。
ならばこの「ハウルの動く城」の降板劇が、細田守監督が自分の思い通りに作品を作り、海外でも人気のアニメ作家になったと言えなくもありません。結局は、これが細田監督にとって良かったものと考えます。
