「プラダを着た悪魔2」(2026年)が公開前に炎上騒ぎが起きました。白人の東洋人差別ではないかということですね。
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 炎上の発端は、日本時間4月17日夜に公開された約40秒のクリップ映像
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 実は差別ではない?中華系女性の描き方に気を使っている?コンプライアンス重視の現代映画の描き方は?
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 主役を目立たせるための引き立て役をアジア系にしたのが失敗したのか?それをアジア人にしたのは自分は差別していないという無意識のなかで実は多少偏見があったから?
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 今回の差別騒動から連想する半世紀前以上の名作「ティファニーで朝食を」の日本人に対する差別感とは?
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 映画とは違う原作のユニオシは紳士的?太平洋戦争から数年しか経っていないのに原作者が日本人に対して憎悪も偏見もない描き方をしているのに作家としての矜持を感じさせる
- プラダを着た悪魔2アジア人差別 映画を通して社会問題を考える。映画をより深く見ると自分にとって有益なことになります
プラダを着た悪魔2アジア人差別 炎上の発端は、日本時間4月17日夜に公開された約40秒のクリップ映像
「ランウェイ」編集部で主人公アンディ(アン・ハサウェイ)に就いたアシスタント、新キャラクターのジン・チャオ(ヘレン・J・シェン)が登場し、どういう役柄か紹介した場面がクリップ映像が炎上しました。これを見た微博(ウェイボー)やX上のインフルエンサーたちが批判の声を上げたのです。
その理由は「ジン・チャオの“地味で眼鏡で小柄”というルックスが、欧米におけるアジア人のステレオタイプ」「(イェール大卒の秀才という設定セリフをうけて)頭はいいが社交性に欠ける、古いアジア人イメージ」……ゆえに「人種差別的である」というものでした。
ですがこれは誤解でした。批判をする人々は公開前だからこの切り取り映像だけで判断したものでした。本編をご覧になればアジア人差別ではないことがよく分かります。考えて見ればコンプライアンス重視で人々の視線が厳しい今日あからさまな差別描写をするわけがありません。商売上でもまずいことですから。
プラダを着た悪魔2アジア人差別 実は差別ではない?中華系女性の描き方に気を使っている?コンプライアンス重視の現代映画の描き方は?
主人公アンディ(アン・ハサウェイ)のアシスタントになるべく、中華系のジン・チャオは自分をアシスタントにしてくれとアピールするために学歴を過剰にアンに話しているのです。そのふるまいは「過剰に気を遣う」「SNS的なふるまい」をする現代的な若者像であり、アジア人ではなく「Z世代のデフォルメ」である……と米・エンタメ媒体「ハリウッド・レポーター」は分析しています。映画本編を観ると分かりますが、本作はアジア人のキャスティングが普通のハリウッド映画よりも多いのです。ここも白人だけのキャスティングという前作の批判をかわしているのがよく分かります。
ジン・チャオをアジア人差別的表現をするのならばコメディリリーフとして数々のドジを踏んでアンディがあきれ返るというようなところを表現するでしょう。しかし、ジン・チャオは機転を利かせます。ミランダと会社の重役とミーティングしているとき、アンディたちは何を話しているんだろう、と離れたところで気にしています。そこでチャオはミランダたちのテーブルに近づいてわざとテーブルの下にスマホを落とします。スマホは録音機能を作動させて、彼らの会話を聞き取りアンディたちもミーティングの内容を知ることができました。
プラダを着た悪魔2アジア人差別 主役を目立たせるための引き立て役をアジア系にしたのが失敗したのか?それをアジア人にしたのは自分は差別していないという無意識のなかで実は多少偏見があったから?
地味で眼鏡で小柄というステレオタイプのアジア人描写もアン・ハサウェイとエミリー・ブラントとの対比で描いているのでしょう。主役級の俳優と脇にいる俳優と同等のルックスでは主役が目立たなくなるでしょう。脇にいる俳優はこういっては何ですが見劣りのする容姿の俳優をキャスティングするのは映画やテレビドラマでよくあることですよ。しばしばこのポジションでは笑いを取る役目もあります。製作者側はそのセオリーに沿っただけです。
しかしそれが差別と受け取られるという今回の事案について製作者側も自分も無意識のなかでアジア人蔑視をしていたと知ることができたでしょう。これを機にかれらが気をつけていけばいいのです。だから今回の炎上は早とちりとは言え、声を上げることは有効です。そして人類がよりよく自分を上げることにできることですし、社会のためであります。
無意識の差別、今回のチャオの容姿がそうですね。製作者側にまったくの偏見がなかったとは言えませんし、それを差別だと言われれば反論できないでしょう。問題なのは、ヒロインを引き立てるために冴えないキャラを脇においたのはドラマの作劇法としても東洋人にそれを当てはめたことにより、無意識の差別となってしまったことです。
プラダを着た悪魔2アジア人差別 今回の差別騒動から連想する半世紀前以上の名作「ティファニーで朝食を」の日本人に対する差別感とは?
今回の炎上騒ぎで私はオードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」の登場人物ユニヨシを思い出しました。
「ティファニーで朝食を」は映画史上に残る名作映画です。しかし、ヒロイン、オードリー・ヘップバーン扮するホリーのアパートの部屋の上に住んでいる日系アメリカ人、もしくは日本人のユニヨシの描写はいただけません。
背が低くて丸顔、眼鏡、出っ歯という醜悪ないでたちは戦時中に意図的に悪意のあるイメージとしてアメリカのプロパガンタで良く出てきたものを引きづっています。これがアメリカ人における日本人のイメージとして定着して、太平洋戦争が終わって15年経った映画にも表れたと私は思います。
この映画が制作された当時のアメリカでは、日本に対する情報は極めて少ないものでした。まあ今でもそうですかね。日本に関心があるアメリカ人以外には日本なんてサムライ、ゲイシャ、フジヤマぐらいなものでしょう。一般的にアメリカ人は音楽、映画、テレビなどのエンタメや資源などてめえの国で間に合うところですから、外国に対して無関心な人が多いんですよ。また戦争が終わって15年しか経っていないので戦時中の醜い日本人のキャラクターをそのまんま引きづるのもしかたありません。また、戦後数年しか経っていないので敵国人に対する憎悪もあるでしょうしね。
なにかドタバタ喜劇の要素を取り入れて映画の彩を添えようとしたので差別的な意図はなかったのでしょう。ブレイク・エドワーズ監督もユニヨシを演じたミッキー・ルーニーもユニヨシの描写が差別的じゃないかという声が上がったときに、そんな差別しようという意図はないとコメントしています。それを額面通りに受け止めることはできないでしょうが、あくまでもお笑いとしてそのキャラクターを作り出したと思います。ただし、日本人をそんなお笑いに使った点は、監督や役者に無意識の差別感が心の底辺にあったと考えています。意識していないけど、差別していることに気が付いていないということですね。あいつはこういう奴で、という決めつけなどは無意識の差別感という偏見があるわけです。
プラダを着た悪魔2アジア人差別 映画とは違う原作のユニオシは紳士的?太平洋戦争から数年しか経っていないのに原作者が日本人に対して憎悪も偏見もない描き方をしているのに作家としての矜持を感じさせる
さて原作のユニオシはこんな醜悪なお笑いとして描いていません。原作のユニオシはヒロインと対等なニューヨークで働く知的なフォトグラファーです。映画のようにホリーの騒がしさにイラついているのでありますが、これも映画のような出っ歯で丸顔の容姿が描写されていません。小柄であるという以外の描写がありません。大手出版社の雑誌に所属している一流の写真家という設定です。小説の登場人物がユニオシのことを日本から来た紳士と説明しますが、後でジャップという差別用語を発します。しかしこれはその人物は差別意識のあるという描写です。
原作では”私”という語り手がいますがその人はそんな差別的な物言いはしていません。原作は50年代に書かれており、映画よりも太平洋戦争が終わってそんなに時間が立っていません。にもかかわらず、原作者トルーマン・カポーティは数年前は敵であり、当時の欧米の白人が持っているアジア人差別的な憎悪でもってユニオシを描いていないのです。憎々しいジャップとしているわけでないというのは、カポーティが作家としてかつての敵国であった日本人の偏見がないし、憎悪もなかったという作家なら必要な誠実さがありましたね。まあ背が低いと描いたのは偏見でしょうが、実際に当時の日本人は西洋の白人に比べたら小柄な人が多いのも事実でしょう。太平洋戦争のプロパガンタで日本人というと映画版のユニオシになるのが一般的なアメリカ人のイメージなのでしょう。それを差別という意識がなく、お笑いのネタとして使用したというわけです。
プラダを着た悪魔2アジア人差別 映画を通して社会問題を考える。映画をより深く見ると自分にとって有益なことになります
今ではコンプライアンス重視で、過去の小説、漫画、映画、テレビドラマなどで描かれている描写が今日の目で見るとよろしくないということになるのは多いですね。これがやり玉にあげられることもあります。
このユニヨシという架空の人物も制作当時は単にお笑いのネタにすぎませんでした。監督も役者も無意識だけど差別感はあったでしょうが、昔はこういうことは道徳的にどうかと問われることはありません。でもこの映画を観た当時のアジア系のアメリカ人には明らかに不快感を覚えたと言います。でもそれに抗議をしなかった、というのは彼らがアメリカ社会においてマイノリティであり不利な立場でもあったことと、東洋人の特性として感情を表に出さないというのがあったせいもあるのでしょう。しかしそれではいつまで経ってもアメリカ社会では弱い立場でしかありません。「パール・ハーバー」(2001年)での日本軍人の描写にアジア系アメリカ人は抗議をしていました。近年になってアジア系が声をあげているのは、そうでなければアメリカ国内で不利な状況がよくならないからです。
昔の映画や漫画などの創作物がいまの視点でこれはよくないという指摘がよくなされていますね。コンプライアンスがどうだら、こうだらばっかり言っていたら何にも描けないよという声もありますが、そうではありません。制限のあるなかで直接的でなく、間接的に表現するのが創作と呼ぶものでしょう。
過去の作品の描写がいけないといって、これを封印することはよくないことです。こうやって隠すのでは社会はよくなりません。今までなんでもなかった差別や偏見を隠さずにそれを基に議論する、そしてよりよい社会を築くというのが人類の進歩というものでしょう。これまでアジア人が欧米の白人に対してこれは不愉快であると異議申し立てをすること、それから議論が起こってよりよい社会が築かれることが望ましい未来だと思うのです。
「プラダを着た悪魔2」でのアジア人差別ではないか、というのは40秒のごく一部を観ただけで判断した的外れのクレームではありました。しかしそれでもそこから差別について議論が起こったのは悪いことではありません。またユニオシの件も当時は当たり前のこと、昔はそれでなんでもなかった、それをつついてもしょうもないという人もいる。けれど、そこから差別についてあれこれ議論をすることは有意義なことであります。
この21世紀の映画「プラダを着た悪魔2」と半世紀以上前の20世紀中期の映画「ティファニーで朝食を」を見比べて鑑賞して、自分の差別意識を感じるとか社会における差別感、近頃やたらと外国人排除の声が高くなったことを考えるのも、自分がよりよい社会の一員としての人格を高めることができますよ。

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